by Hideto Tomabechi 1998/9/25

はじめに


最近のToshiや貴の花の「洗脳問題」で、あれは洗脳といっていいのかとジャーナリストから質問されることがあります。私の答えは、Yesです。「洗脳的」という言い方がより望ましいと思いますが、起きている出来事の重要性を伝える意味では、はっきり「洗脳」といってしまって差し支えないでしょう。
 まず、この問題を考えるにあたって、概念の定義とはどういうことかということから入りましょう。ある概念(知識)がなんぞやを研究する分野をオントロジー(ontology、存在論)といいます。現代哲学においては、オントロジーは、特に人工知能に知識を表現するという必要性からも、大きく発展しています。例えば私の流派(material representationalist 物質論的表象主義)では、概念の上下関係は、包摂半順序(subsumption partial order)という情報内容の上下関係を比較の基準とした関係で定義し、概念は、その包摂半順序による亜束(semilattice)上での場所で代数的に定義します。数学の苦手な人に平易に言い換えると、概念は、全体(宇宙)の中のあるものを、あるグループの集合体に写 像する部分関数として定義できるということです。このように、概念とは、関数に他ならないというのが、我々の基本的な立場です。
 これは、オントロジカルな意味での個々の概念の定義は、他の概念との情報内容の大小関係を利用して行うことができますという主張です。例えば、猫の上位 概念(superclass)は、動物です。アメリカンショートヘアーは猫の下位 概念(subclass)です。アメリカンショートヘアであれば、必ず猫であるわけで、「アメリカンショートヘア」という概念のほうが、「猫」という概念より、情報が多いわけです。うちのペットの「よしこ」は、「アメリカンショートヘア」のひとつのインスタンス(instance、実例、事例)です。そこで、誰かが私に、アメリカンショートヘアって何と、質問したとします。私の答えは、「それは、猫の一種のことで、(よしこを指さしながら)あの猫もそうだよ」といいます。これがアメリカンショートヘアの定義ですよというのが、我々の考え方のエッセンスです。非常に常識的な立場でしょう。


洗脳の上位概念


ここで、「洗脳」に話題をちょっと戻します。まず洗脳の上位概念(superclass)はなんでしょう?私は、Cognitive Behavioral Methodsぐらいかなと思っています。敢えて和訳すれば、「認知的行動的手法」でしょう。概念の面 白いのはひとつの言語にその概念があるからといって、別な言語にその概念を表す単語があるとは限らないことです。「認知的行動的手法」は、1960年代から70年代半ばまでの行動主義の時代から、70年代半ば以降現在もつづく、認知科学の時代のそれぞれで発明されてきた、あらゆる洗脳的な手法や臨床的な手法を包括する概念です。古くは、ゲシュタルトセラピーやいろいろな古典的な心理手法も、現代的なEMDRなども、認知的行動的手法のひとつでしょう。そういったあらゆるメソッドのなかで、被験者の為ではない(ようするに臨床的でない)方法のなかで、社会的にあまり価値のないものの集合を「洗脳」といっているのでしょう。我々科学者が時折おこなう心理物理実験は、被験者の心の病気を治す為にやっているのではないので、被験者のための臨床手法ではありません。それでも、科学の進歩という社会的に価値を認められている範疇にはいるので、「洗脳的」なグループには入らないでしょう。このように、我々は、概念を特に情報内容の上下関係をベースにしたグループ化によって定義します。


直訳的定義の困るところ


たまに、困ったひとがいて、英語の単語を日本語に訳してそれをそのまま概念の定義としてしまうひとがいます。アメリカコンプレックスの学者さんや評論家さんの典型的なパターンです。いい例が洗脳です。勿論語源的には、英語のbrainwashという単語の直訳です。だから、洗脳とはbrainwashである、ところで、米国の文献によると、brainwashとは。。。、とやられると、それはまるで明治の学者さんです。私たちが知りたいのは、「洗脳」という概念とは何ぞやということであり、その語源のbrainwashという単語の意味はなんぞやを知りたいわけではありません。言葉は生きています。言葉の意味は、その言葉が利用される環境での使われ方で決まります。(これをpragmatics、語用論と言語学ではいっています) 。例えば、日本語の川と中国語の川と英語のriverの意味は違います。日本人にとっての川は、中国人にとっての、揚子江などの川のイメージとは、全然ちがいます。また、コロラド州のアメリカ人とマンハッタンのアメリカ人でも全然riverの意味は違いますので同じ言語間でも場所によって同じ形態素からなっても言葉の意味は異なります。これは、インスタンス(実例)に近いレベルの川のそれぞれの下位 概念(サブクラス)達ですので、そうなってしまうわけです。英語の単語を直訳し、英語の辞典にあることを鵜呑みにすると、このように、実際は上位 概念(スーパークラス)のレベルで定義を知りたいのに、サブクラスの定義を言われてしまいます。


はっきり言って日本は遅れています


大体、計算機科学とか、脳科学、現代心理学といった分野では日本の学問は10年位 アメリカに遅れている分野が多いです。もちろん、日本のほうがちょっと先という分野もあるのですが、これらの最新の学問は、もともとアメリカの先生達が生み出したもので、さらにそこで、日本より遙かに厳しい競争社会であるアメリカの学会で、世界中から集まってきたもともと桁違いに賢い人たちが、文字通 り、朝から晩まで研究しているわけですから、日本が引き離されるのは、まあしょうがないところです。日本では、一度助手になれば、よほどの事がなければ、いずれ講師になって、更に助教授になれるし、一度助教授になれば、年をとればだいたい教授になれます。ところが、アメリカでは、助教授になってもさらに数年成果 を上げ続けて、tenureという地位を確保しないと、教授になれないどころか、助教授で大学をクビになります。私などは、日本では、国立大学の助教授という、絶対クビにならないポジションにいたのですが、助教授をやめて、在野で仕事をしていると、アメリカの同僚達は、日本のぬ るま湯を知らないものだから、tenureを取れなくてクビになったのだろうと同情してくれています。
 このように、もともとその学問を生み出した国で、その学問を生み出した先生達の弟子が、厳しい競争社会で必死で研究をやっているのだから、日本が一般 的に学問では10年遅れているのは、まあしょうがないところです。勿論、10年遅れているのは、日本の研究期間の一般 レベルの話で、最先端の研究所には、アメリカでもトップレベルでやれる人はいくらでもいるし、逆に、遅れた大学なんかでは、20年遅れているところもざらにあります。ただ、私の場合などは、研究分野である機能脳科学(functional brain science)で共同研究を始めていたアメリカの研究者達の誰かが次回あたりは、ノーベル賞でもとるのでは、などとボストンで話をしていた矢先、帰国してみると、一部の学者から、「そんな学問はない」とやられましたから、この研究レベルのギャップを日々痛感する世界にいることも事実です。(因みに現在の飯のタネであるのインターネットの世界も似たようなものですが。)


個々の事例との類似性は、概念の定義ではない


ちょっと脱線しまいたが、ようするに言いたいことは、アメリカの最先端の研究の成果 が書かれたものになって、さらに和訳されて、日本に浸透するまでの時間のギャップは、研究成果 そのものが、アメリカで上がっている以上しょうがないものがあるということと、その和訳を権威ある定義だとしてしまうと、良くて10年、悪くて20年遅れた定義になりますよ、ということを言いたい訳です。大体私達が知りたいのは、brainwashingという、米国におけるいろいろなインスタンス(実例、事例)をグループ化したに過ぎない単語の意味ではなくて、もっと抽象化された「洗脳」の概念そのものの定義です。
 Toshiや貴の花を見て私に質問をしてきたジャーナリスト達の「あれは洗脳ですか」という質問には、私をうならせる困った日本の学問の実状がこのようにからんできます。ジャーナリスト達が思い浮かべている「洗脳」は、確かに概念として存在します。それは、先に定義した「認知的行動主義的手法」の下位 概念であり、昔の中国共産党等が利用した一連の「brainwash」手法から帰納的定義した概念の上位 概念になるものでしょう。現在でも、そのインスタンス(実例)が存在している概念でなければ、質問の答えとして親切ではないでしょう。英語なら、それに当てはまりようなのは、unethical cognitive behavioral controlとでもいえる概念だと思いますが、どうも、日本語では、「洗脳」という言葉がぴったりのようです。昔の中国共産党的な、物理的に拘束してガンガンやるやり方は、当時brainwashと呼ばれていましたが、これは、英語では死語に近い言葉です。どちらかというとmind controlという言葉のほうが生きていると思います。一方、日本語では、「洗脳」ということばは生きています。「洗脳セミナー」とか、「カルト洗脳」とか「洗脳された」という言葉は、良く聞く言葉です。だいたい昔の中国共産党的な「brainwash」は世界中まあどこにももうないでしょう。少なくとも日本ではあり得ないでしょう。でも、それで、Toshiや貴の花は、「brainwash]ではないといっても、そんなのは当たり前で、答えになっていないし、それを、概念の定義レベルで言ってしまえば、それは、クラスとインスタンス、つまり、概念とその実例の差を取り違えて、説明してしまうことになります。


それでは、マインドコントロールか


それでは、Toshiや貴の花は、マインドコントロールされているのでしょうか? まあ、Toshiはそうでしょうが、貴の花はグレーゾーンです。貴の花は、マインドコントロール プラス ボディコントロールでしょうね。大体、鍼や整体をつかって、内部表現を操作するなどという手法は、mind controlという概念をわれわれ科学者が米国で生み出した時には、考えてもいませんでしたから。ここに、貴の花のケースを押し込むのには、無理があります。(何でも鍼では、人を催眠状態にしてしまうツボがあるそうですから、こんなことは、米国では知られていません。)Toshiの場合は、まさにアメリカで生み出されたセミナー手法ですから、mind controlの定義が生み出された時の典型的なインスタンスを包含して抽象化した概念としてのmind controlとぴったり合致します。Toshiの場合と貴の花の場合の両方に共通 する上位概念は、まさに、認知的行動的手法の下位概念であり、また、「本人の為ではない」とか、「何らかの行為者側の利益のため」といった情報が付加されて(extentionといいます)、サブクラス化された下位 概念が私たちの求める洗脳の概念でしょう。この概念を表す言葉としては、やはり英語では、unethical cognitive behavioral controlと私ならいうでしょう。日本語だとどうも「洗脳」がぴったりだと思います。ぴったりだと思う具体的な根拠は更に下に書きましょう。ただ、ここで言いたかったのは、昔の中国共産党などがやっていたと言われているbrainwashのインスタンスにならないからといって、「洗脳」ではないというのは、簡単に言えば、翻訳の問題。大上段に構えると、アメリカの文献(の和訳)に書かれていることだけが権威だと思いこんでしまった日本の学会の、典型的なパターンを感じます。勿論そのような主張をされている先生方の名誉の為に言っておきますが、それが、誤りなのではなく、それを正しいとする文化を生み出してしまった、日本の学会っぽさを感じる私個人の感想であり、その世界で活動されている先生方にとってはそれしかない選択でもあるのです。概念(class)とその具体的な事例(instance)はオントロジカルに異なる存在です。もはや、昔の中国共産党式の洗脳(事例)は世界中で見つけだすことは困難でしょう。だからといって、「洗脳」(概念)が社会になくなったわけではありません。昔の中国共産党のやり方(事例)を聞いて、それを抽象化して「brainwashing」(概念)という言葉を生み出した我々科学者は、その概念を生み出したのであり、その事例に名前をつけたわけではありません。従って、昔の中国共産党式の洗脳と合致しないからといって、これは、洗脳ではないと判断するのは、危険なことです。たとえば、中国共産党がbrainwashingをしていた時代のコンピュータは、コアメモリという丸い磁石の中に電線が通 っているメモリをつかっていました。(その頃、虫がコンピュータに入り込んで誤動作をしてしまったのをbugと呼んでいた時代です。) この時代の文献しか読んだことのない計算機科学者がもし日本にいたら、私のノートパソコンは、これは、コンピューターではないと言われるでしょう。丸い磁石という重要な要素が欠けているといわれますから。Toshiがはまっている自己啓発セミナーの類のやっていることを、あれは洗脳ではないというならば、同じ間違いをしでかします。洗脳ではないという人は、きっと「洗脳は、本人の意志に反して無理矢理マインドコントロールすることである」といった主張をするでしょう。私にとってみれば、これは、丸い磁石という必要不可欠な要因がないので、iMacもVaioもコンピュータではないといっているのと同じに聞こえます。現代のコンピュータは、丸い磁石なんか使わなくても、シリコンで記憶できるのです。同様に、現代の洗脳は、相手の意志に反しなくても、相手に希望させて洗脳できるのです。どちらのケースも要するに技術の進歩ですね。
 オウムがやっていたことは、誰がみたって洗脳です。でも、オウムをやめた人たちに聞けば、口を揃えていいますが、意志に反して無理矢理入信させられた人なんていません。(入信後に、帰してしてもらえず、場合によっては殺されたひとはたくさんいるようですが。)そこで、オウムのやっていたことは、「意志に反して」が洗脳かどうかの基準になってしまうのならば、洗脳ではなくなってしまいます。私は、オウムがやっていたことは、洗脳だと思います。同様に、Toshiにやられたことも、貴の花にやられたこともだと思います。ただ、本人を喜ばせたまま行う少し現代的な洗脳だと思っています。
 それでは、マインドコントロールかというとyesでしょう。ただ、貴の花の場合は、直接的生体への作用まで利用したボディコントロールとでも言うべき、もともとmind controlという概念がつくられた時に科学者が考えていた、「内部表現の操作による思考の制御」という範疇には入りきれないものがあり、マインドコントロールプラスαでしょう。こうしてみると、現代の日本語の運用論まで考えてみると、「洗脳」という日本語が表現する概念は、マインドコントロールを包含する(subsumes)の上位 概念(super class)ということになりそうです。
 また、「同調作用」といった説明をされている先生方もいらっしゃると聞いていますが、それは、現象を説明するひとつの語句としては間違いないでしょう。ただし、これは、洗脳下における顕著な作用のひとつを表している言葉ですから、同調作用がみられるから、洗脳ではないという訳にはいきません。同調作用というのは、同じ環境を共有していると起きやすい作用ですが、催眠作用と同様に、通 常術者のいる環境から離れたり、一晩寝れば、消えてしまうものです。それが、術者がいなくても同調作用が永続してしまうように仕掛けるところが洗脳の洗脳たるゆえんです。


なぜ、洗脳ということばがぴったしか


さて、次に、「洗脳」という概念がぴったしと感じる根拠について話しましょう。包摂半順序(subsumption partial order)を利用した概念の形式的な定義(formal definition)の手法を冒頭で説明したわけですが、これ以外にもう一つやり方があります。英語では、operational definitionと呼んでいるやりかたです。運用的定義とでも訳しましょう。さらに、定義の手法ではなくて、定義とはなんぞやというオントロジカルなレベルの問いで、inductive definitiondeductive definitionのそれぞれの立場があります。帰納的定義と、演繹的定義です。これらの視点から話を進めましょう。

 私達各分野の基礎研究者(最低でも基礎科学分野の博士号取得以上の研究者)の特権は、分野における概念の形式的定義を行い、これが正しいと主張することができるということです。勿論、こういった形式的定義は、世界への主張ですから、当然通 常、英語の文献において発表します。勿論ある人の主張がそのまま受け入れられるわけではなく、学会や学会誌でディベートが行われ、最終的に形式的定義が何となく合意され、その後、一般 紙や書籍で利用される概念となるわけです。こういったプロセスを経る訳ですから、例えば現代の機能脳科学的な立場からの定義が一般 の文献となり、さらに和訳されて国内に浸透するのには、最低でも数年はかかるでしょう。だからといって、実際の社会での出来事は、待ってくれません。洗脳の例で上でのべたように、当時の形式的定義とでもいえる中国共産党の時代の手法等を見て行った洗脳の帰納的定義は、もはや、現代の現実の洗脳手法を表してはいません。この場合に、利用すべきなのが、運用的定義の方法です。これは、その分野におけるあらゆる文脈(context)のなかで、特定の言葉がどのように利用されているかを調べ、その総体の抽象化としての概念の定義を行う手法です。要するに、その言葉を形式的に定義することなく、まずどんどん使ってみて、その上で、ある程度使った段階で、その総体としての概念化を行うということです。例えば、破壊的カルトのような集団があまり目立たなかった日本では、危ないセミナーはもう10年以上続いていると思いますが、例えば「洗脳」という概念が形式的に定義されてはいませんでした。理由は簡単で、この分野で努力されている、カウンセラーの先生や臨床家はたくさんいると思いますが、形式的定義を行う特権を持った基礎研究者が日本にはいなかったからです。そこで、やるべきだったのは、20年前のアメリカの文献の翻訳から、これが、「洗脳」だといった「いにしえ」の形式定義を引っぱり出してくることではなく、現場のカウンセラーやジャーナリスト達が使ってきた「洗脳」ということばの文脈を網羅して、運用的定義をすることだったでしょう。その場合、オウムのやっていたことは明らかに洗脳であり、Toshiがはまっているようなセミナーグループの手法も洗脳でしょう。これが、「洗脳ということばがぴったし」のゆえんです。ただし、こと「洗脳」という言葉に関しては、形式的定義を行う特権を持った基礎研究者のひとりである私が帰国し定義をしてしまった以上、基礎研究者の方々には、これにチャレンジする論文を書いていただき、また、応用分野や臨床分野の方々には、当分私の定義をお使い頂くのが、学問的には安全かと思います。
 ところで、帰納的定義が演繹的定義かという選択は、本質的には、形式的定義をどのように作るかという、基礎研究者が悩むべき話題で、運用的定義を利用する場合は、あまり関係ないことですが、帰納的定義では、インスタンスをたくさん見て、その抽象化を試みます。これは、一見、運用的定義と似ていますが、運用的定義では、形式的に定義しないで概念(クラス)を実際に利用(運用)してしまうことを、ある程度続け、その後その総体を抽象化するという行為であり。具体的なインスタンスから直接抽象化を試みるオントロジカルな立場を表す帰納的定義とは、異なる概念です。この方法がいいところは、具体的事例を的確に抽象化できるところですが、一方で、ありとあらゆる犬をみて、「犬は、4本足で歩いてワンとなく、家畜」みたいな定義をしてしまう危険性もあります。この場合、交通 事故で片足を失った犬は犬ではなくなってしまうし、もし、野生の犬というのが存在すれば、犬ではなくなってしまいます。つまり、事例として集められたサンプルが網羅的である必要性があります。中国共産党と、どこかのカルトと、どこかの軍隊程度の数のサンプルから帰納的定義をしてしまうと、「洗脳」の例のように、あまり使えない定義が生まれてしまう可能性があります。
 一方、演繹的定義では、あらかじめ、概念として形式化定義された知識、(つまりアプリオリな知識)を利用して、定義を行うやりかたです。その意味で、その定義を実際に具現化する事例(インスタンス)が見つかる保証はありません。冒頭の私の「洗脳」の形式的定義では、「認知的行動的手法」(cognitive behavioral methods)という学会では受け入れられた(アプリオリな)概念の下位 概念(サブクラス)として洗脳を定義しました。これに際して、「本人の為でない(臨床的でない)方法のなかで、また社会的に価値のないもの」という付加情報(extention information)を加えることにより、「洗脳」を「認知的行動的手法」の下位 概念化したわけです。これは、演繹的手法です。そして、これのインスタンスとして、中国共産党の例、オウムの例、Toshiの例、貴の花の例が事例化できるかを考えます。私には、どう考えてもそれぞれ正当な事例だと思います。つまり、冒頭の包摂半順序による私の「洗脳」定義はどうやら役に立つ概念のようです。もし、これに疑問がある基礎研究者の方は、是非論文をお書き下さい。ところで、余談ですが、「認知的行動的手法」の下位 概念で、「臨床的ではないが、社会的に価値のある」ものは何でしょうか? 私は、これが「教育」のひとつの定義だと思っています。
 今回は、「洗脳」ということばが、古すぎる形式的定義しかないまま、ああだこうだといわれていたので、現代的な形式的定義を敢えてしたわけですが、その他のこのような概念は、臨床家や、ジャーナリストは、基礎研究者による形式的定義の合意を待たず、どんどん利用して、それらの利用に関して、「古い文献によるとこれは権威ある定義と違う」などとやぼなことはいわないで、たくさん事例に合わせて利用した上で、それら各文脈の総体としての運用的定義を行えば良いと思います。
 最後にもう一つ、「洗脳」ということばで、オウムや、Toshiや貴の花の例を総括すべきだなと感じる、非形式的な根拠は、「これらを洗脳と呼ばないで、何とする」という危機感が私にはあるからです。最近、洗脳的な手法を、カルトやマルチ商法、一部のセミナー団体を含む半社会的な団体が容易に利用できるようになっています。これは、その手法がだんだんマニュアル化されてきているからです。危険なのは、例えば、サリンを撒いた人たちは、LSDで特別 に無理矢理洗脳されたから撒いたわけではないことです。ヴァジラヤーナをそこまで、信じるに至る過程では、ヨガによる、まさに貴の花に行われたのと同様な、身体的な洗脳手法と、説法会や修行を通 した、まさにToshiに行われたのと同様な、ゲシュタルトセラピー的な洗脳手法があったからです。勿論、オウムにはその他のテクニックもありますが、そのどれもが、本人達が自主的に、お金まで払って参加しているものだということです。医師にサリンを撒かせる程のレベルの洗脳を、本人が自主的に修行をしているからといって、洗脳と呼ばずに、何を洗脳と呼ぶのだという危機感があります。現代的な洗脳はそれほど危険なものであり、Toshiがはまっているようなセミナーグループの手法も同じくらい強力なものだということを、知らしめる意味でも、はっきりと「洗脳」と呼ぶべきだと思っています。幸い、Toshiの属している団体は、平和的かつ社会的な団体のようですが、そのリーダが突然気が狂ったり、犯罪集団にのっとられる可能性がないわけではありません。その意味で、あれも洗脳であるとはっきりと言っておくべきだと思っています。